―情報社会×人間性、その交差点に立っている今起こっている事。現実の輪郭―気づかぬまま、世の中は“更新”されている
202●年。
ある地方都市の役所で、ある窓口業務がひっそりとAIに置き換えられた。試験導入から半年、クレームはほぼゼロ。むしろ「人間より的確」「説明がわかりやすい」と好評だ。
その報告を受けた自治体の幹部は、こうつぶやいた。
「問題がないなら、もっと広げてもいいかもね」
誰もそれを止めようとはしなかった。
なぜなら、それが“合理的”で、“効率的”で、“間違いがない”からだ。
つまり、文句のつけようがないほど、正しい選択だった。
ただし、感情も、表情も、不器用な思いやりも、そこから静かに消えていった。
-「便利」の裏で、私たちは何を手放してきたか?
今、SNSを開けば誰かが何かを断罪し、検索すれば誰かが「正しさ」を教えてくれる。
「思考」は“外注”できる時代だ。
「考えなくても答えが出る」ことは、もはや利便性を超え、習慣となった。
気づかぬうちに、私たちは「自分で感じる」「自分で疑う」ことをやめていった。
企業ではAIが社員の評価を始め、
教育現場ではAIが作文や課題をチェックし、
家庭ではAIスピーカーが家族の会話を代弁する。
では、**人間が担う“余白”**は、今どこにあるのだろう?
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AIが奪うのではない。「私たちが差し出している」のだ
よく語られるのは、AIによる“仕事の代替”。
だが本質的な問題は、もっと深いところにある。
それは、人間が「人間であること」の一部を、自ら差し出しているという現実だ。
・判断に責任を持つことが怖いから、AIに任せる
・発言して叩かれるくらいなら、AIが生成した無難な文章を使う
・相手の気持ちを想像するより、正解を検索する
「それが悪いわけではない」と思うかもしれない。
確かに、そのほうが楽で、リスクも少ない。
けれど、そうやって一つひとつ、私たちは“人間らしさ”の部品を手放している。
それはまるで、身体の感覚を麻痺させていく麻薬のように、静かで、そして確実だ。
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AIが人間に“なれないもの”とは何か?
では、私たちはもう、ただAIに代替されていく存在なのか?
そうではない。
AIは計算はできる。
言葉も作れる。
感情らしきものも模倣できる。
だが、AIは「不完全さ」から生まれる共感や連帯を持たない。
泣く子を前に、どう声をかけていいか分からず戸惑いながらも寄り添う人間の温度。
失敗を重ねた末に出てくる、震えるような言葉。
矛盾を抱えたまま、必死に誰かを信じようとする心。
それらはすべて、**非合理で、不完全で、そしてAIには再現できない“人間の尊厳"だ。
問いかけてみよう。
あなたは、いつ「自分の感情で決めた」ことがありますか?
誰かの気持ちを、検索せずに“感じようとした”のはいつですか?
誰かと傷つけ合いながらも、つながろうとしたことがありますか?
そのすべてが、AIには“できないこと”なのだから。
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【あとがき】
人間らしさとは、正しさではなく、揺れながらも向き合おうとする“意志”の中にある。今、静かに奪われているのは、「人間の存在証明」そのものなのかもしれない。
だからこそ、今日だけは――
あなたの言葉で、あなたの感情で、世界を見てみてください。
それはきっと、まだ消えていない“人間の可能性”の証になるはず!
もう時間が無い、田舎の衰退も、人間らしさを取り戻す平和な時も
波瀾万丈世直しアウトロオヤジの叫び